『帝室劇場とバレエ・リュス マリウス・プティパからミハイル・フォーキンへ』


平野恵美子著
未知谷(2020年7月)
480頁、定価:5000円(税抜)

ロシア・バレエの人気は根強い。1909年にパリで初公演を行い、《シェヘラザード》《ペトルーシュカ》などのモダンな作品で西欧の人々に衝撃を与えたバレエ・リュス。これらのバレエを創った振付家のミハイル・フォーキンや、V・ニジンスキー、アンナ・パヴロワといった有名ダンサー達は、ペテルブルクの帝室劇場でデビューし育まれたことをご存知だろうか。
一方、チャイコフスキーの音楽による《白鳥の湖》《眠れる森の美女》《くるみ割り人形》などのクラシック・バレエもまた、19世紀のロシア帝室劇場から生まれた。本書では「民衆芸術(フォークロア)」をキーワードに、《せむしの小馬》に代表される帝室バレエの数々から、バレエ・リュスの《火の鳥》が誕生するまでのロシア・バレエの歴史を、最新の資料に基づき読み解いてゆく。
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ロシア・バレエといえば、チャイコフスキーの三大バレエを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。だがそれ以前の歴史について詳しく書かれた日本語の書籍は、これまで森田稔氏の『永遠の白鳥の湖』(新書館、1999)を除き、ほとんどなかった。本書の第1章ではロシア・バレエ史の最も初期の時代から始まり、偉大なバレエ・マスター、マリウス・プティパの半生について記す。かつてバレエやオペラは皇帝の権威を高める手段だった。プティパは、アレクサンドル三世とニコライ二世の戴冠記念祝賀式典で自作のバレエを披露する栄誉に浴し、首席バレエ・マスターとしての地位を確かなものにした。この章では三大バレエ以外に、《パリの市場》《ロクサーナ、モンテネグロの美女》《フローラの目覚め》《真珠》等、プティパの知らざれる作品も数多く紹介する。
第2章では《せむしの小馬》を取り上げる。1890年代と1900年代の帝室劇場で最も上演回数が多かったこのバレエは、今日でも時々上演されるが、当時は内容も音楽も全く異なっていた。P・エルショーフ原作の民話詩では皇帝が農民の子イワンに倒されるが、19世紀のバレエ《せむしの小馬》では皇帝の代わりにカイサキ(カザフ系)=キルギスの汗が打倒される。これは検閲の問題に加えて、当時、中央アジアを征服しつつあったロシア帝国の野望が反映されているのである。
第3章では、当時のロシア芸術が置かれた状況を概説する。西欧的発展の道程を歩む帝政ロシアでは、一方で自国のルーツに立ち返ろうとする傾向が見られ、芸術においては民衆芸術(フォークロア)に注目が集まった。これは「人民の中へ(ヴ・ナロード)」という、革命に向かう社会的な運動とも呼応していた。美術では最初に「移動派」と呼ばれる画家達が、虐げられた人々や社会の不正を画架に描いた。のちにバレエ・リュスを組織したS・ディアギレフら「芸術世界」派は、もっと唯美主義的だった。この「芸術世界」派の画家達は民話絵本の挿画に着目し、やがて劇場にまで活動の場を拡げて、舞台美術の世界に革新を起こした。本書ではロシア象徴派の画家達の作品や舞台美術の珍しい画像も多く掲載されている。
主にフランス人のバレエ・マスター達が君臨していた帝室劇場では、相変わらず19世紀西欧の古典主義的なバレエが上演されていた。そうした中でも、民話を主題にしたバレエが少しずつ創られ上演されるようになった。だが《せむしの小馬》に見たように、その実態は民話の世界からかけ離れていた。帝室バレエに君臨したマリウス・プティパの最後の上演作品となった《魔法の鏡》も、A・プーシキンの民話詩を下敷きにしているが「失敗作」の烙印を押され、プティパは引退した。このことはフォーキンら新しい世代の芸術家が活躍するための可能性を拓いた。バレエ・リュスは1910年にパリで《火の鳥》を上演した。これはバレエにおける最初の新民衆派芸術作品である。一方でプティパの作品もまた上演され続けた。第4章では、忘れられたバレエ《魔法の鏡》に目を向け、特にこれまでほぼ無視されて来たアルセーニー・コレシチェンコの音楽の謎に迫る。コレシチェンコはモスクワ音楽院で、ラフマニノフと同じくS・タネーエフとA・アレンスキーに師事した。ラフマニノフ以前に卒業時に大金メダルを授けられたのは、タネーエフとコレシチェンコの二人だけである。将来を嘱望された才能ある作曲家だったが、不運なコレシチェンコの名前は音楽史から消し去られてしまった。
本書には附録として、ディアギレフの芸術的指向の表明(マニフェスト)である論文『複雑な問題』の全文日本語訳、1890年から1910年の20年間のマリインスキー 劇場とボリショイ劇場におけるバレエとオペラの全レパートリーと上演回数、バレエ作品の演出と上演史など、大変貴重な資料が多く含まれている。おそらく日本では初めて書籍に掲載される美しい挿画の数々とともに、革命前の知らざれる帝室バレエとバレエ・リュスの世界に是非、触れて頂きたい。

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