編訳者:前田勇[元経団連・日ソ経済委員会主任研究員]  

8月1日
○1922年、ネップ(新経済政策)の導入によって、1917以後初めてニージニーノヴゴロドの定期市が開催されたが、これは100年も前の1817年から開かれていたものであった。


8月2日
○1872年、スキャンダラスなほど有名な革命家・陰謀家であり、冒険主義者、恐喝屋、殺人者であったセルゲーイ・ネチャーエフ(1847〜1882)が、スイス官憲よって、ロシア官憲に引き渡された。そして11月にはペトロパーウロフスク要塞監獄に収監された。何世紀にもわたって世界中からの反体制闘士や反乱分子に隠れ家を与えていたスイスが、若い革命家をロシアの小役人どもに引き渡すとはけしからん、とロシアの民主的世論は憤激した。ロシア当局は、ネチャーエフは政治犯としてではなく、刑事犯として引き渡されたとして無視した。学生イワン・イワーノフを〔裏切者として〕殺害した「ネチャーエフ事件」が問題とされたのである。まさにこの事件を基に、ドストエフスキーが長編小説「悪霊」を書いたとされる。[ネチャーエフは1873年に20年の徒刑の判決を受け、ペトロパーウロフスク要塞監獄で死んだ]


8月3日
○1922年、反ソ活動の容疑でロシアの大哲学者ベルジャーエフ(1874〜1948)がゲー・ペー・ウーに再逮捕された。そして8月21日まで国家保安部内刑務所に勾留された。その後、共産党政治局及び中央執行委員会幹部会による国外永久追放に関する決定がベルジャーエフに宣告された。

8月9日
○ソ連、日ソ中立条約を破棄して対日参戦(米軍6日広島に原爆、続いて9日長崎に原爆、15日天皇「終戦」の詔書放送)

8月18日
○1782年、ペテルブルグの元老院広場でファルコネー作のピョートル大帝の銅像(「青銅の騎士」)の除幕式が行われた。ピョートル大帝即位100年記念及びこの記念碑の建立を記念して、エカテリーナ二世は恩赦を宣言した。

8月19日
○1887年、モスクワ郊外のクリン市[ソ連時代のモスクワ駐在員の利用できた唯一の貸別荘地ザヴィードヴォへ行く途中にあり、チャィコーフスキー邸博物館で知られる]で、ドミートリー・メンデレーエフは夕方6時半に気球(水素充填)「ロシア号」で空に上昇した。8時には気球は3,800mの高度に達した。午後9時半ころ、上空を約100キロ飛行してスパス・ウーゴル村の近くに無事着陸した。
  この学者は飛行中に多くの大気圏の計測や観察をゴンドラの中で行った。飛行の二日前にこの偉大な化学者は、「出来るだけ簡素な葬式をやっくれ」と遺言していた。メンデレーエフは、物理学者のクラーエヴィチと飛行準備の気球を描く画家のレーピンと一緒にクリンに到着したのだった。[メンデレーエフ〔1834〜1907〕は、1969年に有名な元素の周期律を発見し、当時未発見の元素の周期律表の中での位置を指摘し、その性質を予言したことで知られる世界的に著名なロシアの化学者、百科学者。ペテルブルグ大学教授を長く〔1865〜90〕を勤めたが、当局の学生に対する弾圧に抗議して辞職した]

○1937年、夭折した(35歳になる二日前、バイカル湖で溺死した)才能ある劇作家ヴァンピーロフが、イルクーツク州で生まれた。[この劇作家については、最近、遺稿集として刊行された宮沢俊一「ロシアを友に−演劇・文学・人」(群像社)に詳しい。なお、今は共に故人となった同氏及び夫人の翻訳によるヴァンピーロフの戯曲集「去年の夏、チュリームスクで」(群像社)、「長男・鴨猟」(同)も出版されている]


8月20日
○1962年、ノヴォチェルカッスクで同年6月1〜3日の大衆騒乱事件の組織者及び積極的参加者の「公開」裁判が結審し、57名が銃殺刑、その他の者は10年から15年の長期禁固刑の判決を受けた。[ペレストロイカ、グラースノスチの時代になって一般に知られるようになったようだが、フルシチョフ時代のこの年には物価値上げに反対していくつもの都市で騒乱事件やストライキが行われた。ノヴォチェルカッスクでの労働者の大量銃殺は最近のロシア史年表にも載っている。この年の10月にはアメリカはソ連のミサイル基地建設に対し対キューバ海上封鎖を宣言、いわゆるキューバ危機が起きて、ソ連はミサイル撤去を回答して戦争が回避された。日本では堀江謙一さん、ヨットで世界初の単独太平洋横断に成功]


(典拠は最近年のモスクワ・ニュース誌および各種事典)