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5月2日 ○1938年、詩人オシープ・マンデリシュターム〔1891〜1938〕は再逮捕され、5年の収容所拘禁の刑を受けて囚人護送方式(エタープ)で極東に送られた〔9月7日にモスクワ出発〕。その年の12月末に詩人は、ウラジオストーク近郊の中継ラーゲリのバラック〔診療所〕で死んだ。[この著名だが難解な詩人の詩は、最近日本で優れた翻訳者・研究者を見出した。「マンデリシュターム読本(中平燿著、群像社刊)。また詩人の夫人であるナジェージダ・マンデリシュタームの「流刑の詩人・マンデリシュターム」(木村浩・川崎隆司訳、新潮社1980年刊)は興味深い) 5月3日 ○1803年、自分の亡くなった妻の女優プラスコーヴィヤ・コワリョーワ=ジェムチューゴワを記念してモスクワに養老院を設立したいというニコライ・シェレメーチェフ伯爵の申し出でにアレクサンドル一世が許可を与えた。[これが今はスクリファソーフスキー記念救急医療研究所及び医学博物館になっている半円形の美しい建物である。古いサーカス場のある通りが環状道路と立体交差する近く、サドーヴァヤ・スハリョフスカヤ通りにあり、1972年11月の日航機墜落事件の犠牲者が収容されて、身元確認に通った悲しい記憶がある) 5月5日 ○1698年、ピョートル一世〔大帝〕が、ロシアで働かせるために60人の専門家、つまり船長、水先案内人、造船技師、水車〔風車〕大工、建築家、学者等を雇って英国を離れた日である。[サンクト・ペテルブルグが、ロシアの都であったのは1712〜28年で、その後都市機能が不十分のためにモスクワにまた都が戻り、それから1732〜1918年まで続いたわけである。沼沢地帯の都市建設は難工事で、いわば「ローマは一日にしてならず」だった] ○185年前、1818年、自分をどんな人間とみなしてもいいが、マルクシストとだけは呼ばないでくれと頼んだ科学的共産主義の元祖カール・マルクスが生まれた。ソ連の哲学者や経済学者は、彼を読まずして、知っているようなふりをしていた。[この地の文はモスコー・ニュース紙の文章の直訳である。日本にだってマルクス読みのマルクス知らずも随分といたと言わざるを得ない] 5月15日 ○1932年、全ソ連邦共産党(ボリシェビキ)中央委員会とソ連人民委員会議[閣僚会議]は共同で、「反宗教5カ年計画」に関する決定を採択した。これは1937年5月1日までに、全宗教的礼拝建造物(注:教会や寺院)の閉鎖と「神の概念そのものの追放」を課題とすると決定したものであった。 ○1987年、最初にして最後の世界最大の巨大宇宙輸送システム「エネールギヤ」が、バイコヌール宇宙基地から発射された。長さ60m、幅20m、輸送貨物100トン以上でスタート時点の総重量2,400tであった。 5月16日 ○1847年、モスクワ美術館(現在のプーシキン記念造形美術館)設立の発起人であり、初代館長であったイワン・ヴラジーミロヴィチ・ツヴェターエフ(1913年没)が誕生した。女流詩人マリーナ・ツヴェターエワ(1892〜1941)の父である。 ○1967年、アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、祖国の文学の貧困状況と検閲やイデオロギー的抑圧の廃止を訴える「第4回全ソ作家同盟大会への書簡」を書いた[大会直前に約250名の出席者に公開状として送った。アントーノフ、アクショーノフ、バクラーノフ、テンドリャコーフら約100人が書簡を支持し、審議を要求したが、大会はこれを黙殺した] 5月18日 ○1897年、アントン・チェーホフに国勢調査への積極的参加に対して名誉ブロンズ賞が与えられた。[当時チェーホフはモスクワ近郊のメーリホヴォ村の住民であり、この年の1月に村の一軒一軒を自ら回って長身の彼が鴨居に頭をぶつけたりして調査する苦労を出版社主のスヴォーリンに手紙で書き送っている] 5月19日 ○ロシア正教暦では、独自の「婦人デー」が祝われる。聖携香女(けいこうにょ、注:十字架から外されたキリストの遺体に塗る聖油を運んだ女性たち)週間である。つまり、キリストが十字架に磔刑になったときに傍らに立ち尽くし、それによって最後まで自己の教師に対する忠誠を守り、かつ最初のキリスト復活の証人になった女性たちの日である。 (典拠は最近年のモスクワ・ニュース誌および各種事典。編訳者:前田勇[元経団連・日ソ経済委員会主任研究員]) |