2月2日
○1943年、スターリングラード攻防戦で赤軍がヒットラー軍を壊滅させた。この勝利を記念してママイの丘に巨大な「母なる祖国」の女性像が建造された。スターリングラードは1961年旧名ヴォルゴグラードに復した。

2月18日
○1969年、国家映画委員会の許可が出てアンドレイ・タルコフスキー〔1932〜86〕の「アンドレイ・ルブリョーフ」の封切りが行われた。映画撮影は1966年には完了していたが、監督タルコフスキーには「思想的及び芸術的な面での間違いを理由に」映画の改作が勧告されていた。しかも、それはこの映画がすでに外国で上演され、1969年のカンヌの映画祭で賞を受けた後のことである。宣伝広告なしの限定された上映が観客のために始まったのはやっと1971年になってからであった。〔イコン画家アンドレイ・ルブリョーフ(推定の生年1360〜70年、没年1430年)の生きた中世ロシア社会の暗黒面(タタールの侵攻、圧政、内乱、飢餓など)を背景にして民衆の信仰とイコンの美を描いたことにソ連政権が不満だったとされる〕

2月21日
○1904年、ソ連首相を1964年から1980年まで勤めたアレクセイ・コスンギンが誕生した(1980年没)。1965年のソ連共産党中央委員会総会で、彼は初めて市場、利潤、効果的投資といった概念を使ったが、いわゆるコスイギン経済改革は挫折した。

2月23日
○1954年、ソ連共産党中央委員会総会は処女地・休耕地の開拓に関する決定を採択した。1954〜1955年に2千万トンの穀物を収穫目的で1,300万ヘクタールの開拓が決定された。1955年までには播種計画は超過達成されたが、穀物の収穫はほとんど無かった。この年のカザフスタンは旱魃にやられ、蒔かれたものは全滅した。処女地には5万6千家族が入植し、485のソフホーズ(国営農場)が設置された。しかし、穀物倉庫建設も間に合わず、輸送網の構築も不完全で、機械修理施設も不足した。処女地で収穫された穀物の原価はロシア中央部よりも高くついた。60年代の初めから頻繁に砂塵嵐が吹くようになった。そのため1962年からソ連は外国からの穀物買い付けを開始することになった。〔カザフスタンのような乾燥地帯では処女地は開拓によって土地の表面の自然に生えた植物が剥がされると、風によって表層土が移動する。ソ連的粗放農業たる機械的大集団農法の失敗と言われている。ウラルやシベリアでの処女地開拓は一定の成功を収めている〕

2月27日
○1846年、1年前にロシアにやってきた25歳のドイツの商人で、後に「ホメロス時代」の発掘で世界を震撼させて有名になった好事家考古学者のハインリッヒ・シュリーマンがロシア国籍を取得した。シュリーマンは、エカテリーナ・ルイジナという女性と結婚し、1954年にはロシアの商人階級(ギルド)では第1級商人になった。彼はロシアに移住した年からインド産のアイなどを扱い、天才的な語学力と機敏な商才で巨富を得たのだった。彼は後の広範囲な考古学調査の実施を可能にした巨万の富をロシアで築き上げると、1869年に米国籍に鞍替えした。妻のエカテリーナ・ペトローヴナは子供を連れて母国ロシアを離れることを拒否したので、シュリーマンは離婚できずに、今度はギリシャの女性と二度目の結婚をした。ロシアの法律に違反した彼はロシア国籍を失い、自らロシアへの退路を断ってしまったが、終生自分のロシアの家族のことを忘れず、手厚い援助を続けた。



(典拠は最近年のモスクワ・ニュース誌および各種事典)