4月4日
○1882年、オデッサで詩人ボリース・パステルナークの父親で画家(線画家、肖像画家)のレオニード・オシーポヴィチ・パステルナークが誕生した。この画家と長年親交のあったレフ・トルストイは、彼を自分の作品の最良の挿絵画家とみなしていた。1921年レオニード・パステルナークはベルリンに去り、そこで彼はヒットラーが彼をユダヤ人故に絵を描くことを禁止するまでは、画家として成功していたが、英国に逃れて1945年に亡くなった。[トルストイの「復活」の挿絵が特に有名]
○1932年、現代の傑出した映画監督アンドレイ・アルセーニェヴィチ・タルコフスキーが誕生した[没年は1986年、「アンドレイ・ルブリョーフ」、「惑星ソラリス」、「ストーカー」、「ノスタルジア」等の傑作で知られる]

 4月6日
○1812年〔ナポレオンのロシア遠征の年〕、革命的民主主義者、評論家であり、マルクスとその一味[当人の表現]の手厳しい敵であったアレクサンドル・イワーノヴィチ・ゲルツェンが誕生した[没年は1870年、ゲルツェンは、1847年から国外に居住し、ロンドンに自由ロシア出版所の基礎を作り、新聞「鐘(コーロコル)」、文集「ロシアからの声」を発行した。[彼の自伝的作品「過去と思索」(邦訳あり)は19世紀の回想文学の最高傑作とされる]


 4月13日
○1941年、モスクワにおいて「日ソ中立条約」が両国の外務大臣(日本・松岡洋右、ソ連・モロトフ)により調印された。ただし1945年4月5日、ソ連政府は、条約締結後の変化(日本の同盟国ドイツのソ連侵攻、ソ連が同盟する連合国米英に対する日本の開戦)によりこの条約はその意義を喪失し存続は不可能になったとし、有効期限満了後のこの条約の延長はしない旨の対日覚書を日本側に手交した。[この条約の期限は1946年4月であったが、ソ連は期限前の1945年8月9日に対日参戦し南樺太、南千島諸島を占領した]

 4月27日
○1877年、卓越した外科医、正教司祭であり、1923年にルカの名前で主教に叙聖され、18年間の〔ソ連政権の迫害による〕牢獄や流刑にもかかわらず、牧師としての勤めをやめることのなかったワレンチン・ヴォイノ=ヤセネツキーの誕生した日。[タシケント大学教授、タシケント市立病院長の彼は、当局の圧力にもかかわらず十字架を下げた僧衣を脱がず、教会も棄てなかった。酷寒のエニセー河の北部に捨て去られるような流刑に三度も処せられた。独ソ戦争が始まると彼は直接スターリンに手紙を書いて戦傷者の治療を行いたいので一時的に釈放し、戦争が終われば再び流刑にするようにと要請し認められた。彼の外科医としての能力は驚異的なものであり、彼の論文はスターリン賞を受けたが、彼はソ連に宗教の自由があるように世界に見せかける手段にも利用された。晩年の彼はやはりソ連政権の宗教弾圧に抗して宗門からも遠ざけられ、クリミヤで貧者の無料診療を続けた。まさに現代の伝説的な聖人とされている。1961年に没したこの人は後にロシア正教会によって列聖された〕
○1887年、アレクサンドル三世暗殺を企てた青年グループの裁判がペテルブルグで始まった。陰謀に参加した5人が絞首刑に処せられた。そのうちの一人がウラジーミル・ウリヤーノフ〔レーニン〕の長兄アレクサンドルである。[1897年、皇帝の命令で警察の監視のもとでの3年間の東シベリア流刑になったレーニンは、起訴前取調房に14カ月過ごした後、受刑者護送の宿営地をたどることを免除されて、自分の費用でペテルブルグからクラスノヤルスクに向かった。途中、彼はモスクワにも何日か滞在し、母親に会ったり、ルミャンツェフ図書館で勉強もした。このニコライ二世の寛大さに反して、レーニンによるニコライ二世一家殺害は彼の性格の残忍な一面とみなされている]

            (典拠は最近年のモスクワ・ニュース誌および各種事典。
           編訳者:前田勇[元経団連・日ソ経済委員会主任研究員])

                

 

 


          
     4月のロシアの暦