
澤田和彦(さわだ・かずひこ)氏
1953年大阪府生まれ
略歴
1975年 大阪外国語大学ロシア語学科卒業
1982年 早稲田大学大学院文学研究科ロシア文学
専攻博士課程後期単位取得退学
1983年 新潟大学人文学部助手
1988年 埼玉大学教養部講師
1989年 埼玉大学教養部助教授
1996年 埼玉大学教養学部教授、現在に至る
主要著書
『幕末、明治期の日露関係史の諸問題に関する実
証的研究』(埼玉大学、1997年)
『異郷に生きる 来日ロシア人の足跡』(成文社
〔共編著〕、2001年)
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「白系ロシア人と近代日本文化」
澤田和彦(埼玉大学教養学部教授)
澤田です。白系ロシア人と近代日本文化というテーマで話をさ
せて頂きます。お手元の資料を見ながらお聞きいただければとお
もいます。
〜ロシア語で澤田先生が話す〜
1917年のロシア革命後、1921年まで、約200万人の
ロシア人がソビエト政権を受け入れず国外に亡命いたしました。
主要な亡命先としては、ドイツ60万人、フランス40万人、そ
の他ポーランド、チェコスロバキア、フィンランド、バルト3国、
バルカン諸国、中国、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどで
あります。日本を亡命先に選んだロシア人もいますが、その数は
少数にとどまります。かつての日本の統計記録を見ますと、日本
に在住していたロシア人の人数が最高に達する年は、昭和5年(
1930年)のことになります。その年のロシア人の数は166
6名ですが、これは登録されたロシア人の数であって、これ以外
にも登録されていない亡命ロシア人、或いは他の亡命先に向かう
ため日本を中継地としたロシア人も少なからずいたはずです。そ
の数を含めると、私は登録された1666名という数からしまし
て、それに上積みしまして、せいぜい2000人から3000人
位かなと思っていたのですが、どうもそうではなく、もっと多く
のロシア人がいたという事が最近わかりました。かつて日本に日
本在住の外国人や外国の領事館などの施設をチェックする機関が
ありました。特に厳しいチェックの対象になったのがロシア人と
ソ連人でした。日本の外事警察の記録を見ると、大正7年(19
18年)ロシア革命の翌年ですが、この1年間に日本に押し寄せ
たロシア人は7251人という数字が出てきました。1920年
には3150人という数字になっています。思ったよりも一時的
に多くのロシア人が日本に来たという事がわかりました。しかし、
このような人々は最終的には日本には留まりませんでした。第三
国に移住したわけです。
それから、今日話をする白系ロシア人という言葉の定義づけは、
まず、白系というのはソビエト政権に対立する白衛軍に加わった、
または、それを支持した人々を意味します。それから今日、私が
使うロシア人というのは、狭い意味での大ロシア人だけではなく
広い意味でのロシア人・・・ウクライナ人、白ロシア人、ルーマ
ニア人などのスラブ系民族、或いはロシアに居住していたユダヤ
人、タタール人などもこのリストには含んでいます。当時の日本
ではこれらの人を厳密には区分していなかったのです。それから
他の目的で来日した若干のロシア人の方々であるとか、また、ロ
シア人と日本人の間に生まれた2世の方々、そういった方々もこ
のリストには含まれております。今日は、そういったロシア人達
は少数しか日本に留まらなかったけれども、近代日本文化に大き
な影響を与えてくれた、恵みを与えてくれたという話をしたいと
思います。一応4つのおおきな区分に分けてみました。時間がな
いものですから要点だけお話したいと思います。
T. 日常生活への影響
1. 服装
日本在住の白系ロシア人がよく従事した職業の1つが羅紗売りの
行商でした。重要な事は、この時代に日本人の職業が和服から洋
服に変わりつつあったという事です。だいたい大正時代の終わり、
つまり1920年代の半ばのことであります。日本人の洋装化に
ロシア人の羅紗売りの行商が、ある程度寄与したといえると思い
ます。
2. 食文化
(a)のパン、(b)のピロシキ・ロシア菓子。これについては
東京新宿の中村屋が有名です。中村屋が果たした役割というのは
大きいです。(c)の高級チョコレート。チョコレートについて
はやはり何と言っても神戸に定住したモロゾフです。おとうさん
のフョードル・モロゾフ、息子のバレンチン・モロゾフの2人が
実に苦労して築き上げたコスモポリタン製菓を第一に挙げるべき
だと思います。
3. 美容
ロシア人というのは色白ですから、「私のように肌が白くなりま
す」などという謳い文句で、ロシア人の人達が化粧品販売に携わ
るという様なことがありました。例えば川端康成の『雪国』とい
う小説がありますが、そこにも化粧品や髪飾りを売り歩くロシア
人女性が登場します。
5. 法の男女平等
ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、レオ・シロタという有名なピ
アニストを父親に持つ女性で、両親に連れられて日本に来ました。
ベアテさんは10年間、日本で暮らしていたのですが、第2次世
界大戦前にアメリカに留学しました。終戦後GHQの一員として
来日いたしまして、日本国憲法の草案作りに参加しました。現在
の新憲法に謳われた男女平等の条項というのは、まさに、ベアテ
・シロタ・ゴードンさんの努力の賜物です。
U. 芸術面の影響
4つの柱の中でも芸術面の影響というものは1番重要な点であり
ます。この点は藤本先生が出だしの部分で触れられました。
1. 音楽
(a)のピアノについて。非常に多くのピアニストたちが日本に
やって来ました。例えば、彼らは東京音楽学校(現在の東京芸術
大学・音楽学部の前身)で教鞭を執りました。
(b)のバイオリンに関して第一に挙げるのは、小野アンナであ
りましょう。アンナさんはペトログラード大学に留学中の小野し
ゅんいちという日本人と結婚しまし、日本にやって来ました。ア
ンナさんは武蔵野音大や桐朋学園高校短期大学で教鞭を執りまし
た。同時に早期才能教育という発想を日本に導入してくれました。
彼女の元から前橋汀子さん、諏訪根自子さん、岩本真希さんなど、
多くの日本人バイオリニストを育だてました。
(c)の指揮者と交響楽団に関して。これは何と言ってもメッテ
ルさんの名前を挙げるべきでしょう。彼は大阪フィルハーモニー・
オーケストラや京都帝国大学部のオーケストラの指揮者に就任し
ました。彼の元からは例えば、朝比奈隆さんや服部良一さんとい
うような顔ぶれが巣立っていきました。ここも大切な点ですが、
こういう風に白系ロシア音楽家が日本にやって来た時期というの
が、ちょうど日本側からいいますと西洋音楽を積極的に受容しよ
うとしていた時期とうまく一致したために、こういう実りがあっ
たのだと思います。
3. バレエ
バレエに関してはバーヴロワという女性を挙げるべきでしょう。
1人目はエレーナ・バーヴロワという人です。彼女は日本にやっ
て来て、鎌倉の七里ヶ浜にバレエスクールを開設しまして多くの
バレリーナを育成してくれました。2人目はオリガ・サファイア
という人で、サファイアというのは芸名で、本名はやはりパーヴ
ロワといいます。彼女はレニングラード駐在の日本の外交官、清
水たけひさという人と結婚して日本にやって来ました。彼女は日
本に帰化いたしまして、日劇のダンシングチームに正式なクラッ
シックダンスを教えてくれました。それから3人目のパーヴロワ
は、アンナ・パーヴロワという人です。彼女は世界的なバレリー
ナで、日本には亡命しなかったのですが、来日公演を行ないまし
た。
4. 社交ダンス
社交ダンスという点でもロシア人の役割は大きなものでした。日
本に本格的に社交ダンスが流行するのは1920年の初頭のこと
です。この流行をロシア人たちが促進してくれました。谷崎潤一
郎の小説をご覧になれば、そのへんの雰囲気というものが良くわ
かると思います。
5. 映画
映画に関しては、例えばキティー・スラヴィーナという女性。彼
女は母親に連れられて日本に亡命した女性ですが、松竹キネマ合
名社という会社に入り、関東大震災が起こるまで5本の映画に出
演しまして、主演女優としてヒロインを演じました。
6. 宝塚歌劇団
宝塚歌劇団の劇場は1941年に設立されました。この宝塚とい
うのは当初から国際的な雰囲気を重視していました。これは多く
のロシア人に職場と演奏会の場を提供していました。
7. 絵画
例えばワルワーラ・ブブノワという女性は、先ほどお話したバイ
オリニストも小野アンナさんのお姉さんに当たる人です。彼女は
かつてペテルブルグ帝室美術アカデミーで学びました。そしてロ
シア・アバンギャルド芸術家のグループに加わり活動した女性で
す。彼女は日本に来て、独自の技法の版画で日本の画壇に新風を
吹き込んでくれました。その他、芸能界でも多くの名前を挙げる
事ができます。
V. 教育、学術面での影響
1. ロシア語
ロシア文学。日本のロシア語、ロシア文学の教育に於いて白系ロ
シア人の果たした役割は実に絶大であります。それぞれ大学名、
組織名、ロシア人の名前を挙げてあります。例えば、小樽高等商
業学校でスミルニーツキーという人が教えておりました。東京外
語ではトドローヴィッチ、そして最近では野村タチアーナさんと
いう人が教えておりました。こういう人達のロシア語の語劇指導
というのはとりわけ有名でありました。先ほどお話した小樽高等
商業学校の教師スミルニーツキーさんは、やがて自分の教え子達
が、第二次世界大戦で出征するという体験をします。その時にス
ミルニーツキーさんが日の丸の旗に餞の言葉を書いたものが残っ
ています。そういう場合、普通日本人は「武運長久」という言葉
で書くのですが、彼が書いた言葉はカタカナで「エラクナッテゲ
ンキデカエリナサイ・スミルニーツキー」というものでした。そ
れから、大阪外語ではロマーエフというロシア人が教えておりま
した。彼の元からも教え子が出征していきました。彼が駅のコン
コースで教え子の出征を見送ったという逸話も残っています。
2. 日本文学
日本文学に関しては何と言っても大泉黒石というユニークな作家
ですね。父親にロシア人、母親に日本人を持つ作家であります。
怪奇小説、ユーモア小説、紀行文、ロシア文学に関する仕事など、
実に多才な文筆活動を行なった人物です。
4. 民俗学
民俗学ではネフスキイという人物がいます。小樽高等商業高校、
その後大阪外国語学校で教鞭を執りました。教職の傍ら、ネフス
キイは各地を訪れまして、金田一京介や柳田邦夫、堀口忍?らと
親交を結びました。日本の民俗学、或いは西夏語、タングート語
の研究に従事したそういう人物がいたんですね。
W. スポーツ面の影響
1. 野球
白系ロシア人は様々な分野のスポーツで活躍しました。野球では
スタルヒンという人が有名です。彼は両親に連れられて旭川にや
って来ました。その後、日本で最初のプロ野球チームである大日
本野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツの前身)に入団しました。
投手として活躍し、通算303勝を挙げました。
2.レスリング
レスリングではヴォロビヨフという人がいます。彼は小樽高商で
は野球で甲子園を目指していて、旭川中学のスタルヒンのライバ
ルでありましたが、早稲田大学に進学後はレスリング選手として
活躍しました。彼は全日本のミドル級を制しております。
3.ラグビー
ラグビーでは橋本晋一さんという人がおります。父親がロシア人
で母親が日本人という方です。彼は早稲田大学に入りラグビー部
に入部します。ターザン橋本という異名をとりまして全日本代表
として活躍した人物です。
4.サンボ
サンボとは1930年代にソ連で始まった格闘技であります。古
賀ヴィクトルさんは父親が日本人で母親が白系ロシア人という方
です。無敵のサンボ選手であります。
5.相撲
相撲ではやはり横綱の大鵬ですね。優勝32回の記録を樹立した、
第48代横綱の大鵬幸喜。彼の父親はロシア人で、母親は日本人
です。最近、彼の父親の事もずいぶん詳しくわかるようになりま
した。
大変駆け足でしたが、最後に一言だけお願いがあります。この
リストに関して、皆様の方で何か情報があれば是非ご教授いただ
きたい。ありがとうございました。
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