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藤本和貴夫(ふじもと・わきお)氏

1938年京都市生まれ

略歴
1964年 大阪外国語大学ロシア語科卒
1973年 東京大学大学院社会学研究科
     国際関係論専攻博士課程中退
1973年 大阪大学教養部講師
1976年 言語文化部助教授
1986年 言語文化部教授
1998年 大学院言語文化研究科教授
2002年 大阪大学名誉教授、
    大阪経済法科大学教授

主要著書
『西洋近現代史研究入門(増補改訂版)』(共編著)
 名古屋大学出版会、1999年
『ロシア近現代史』(共編著)ミネルヴァ書房,1999年
『言語文化学概論』(共編著)大阪大学出版会,1997年
『ロシア学を学ぶ人のために』
 (編著)世界思想社.1996年
『ソヴェト国家形成期の研究1917-1921』
 ミネルヴァ書房,1987年
『日露・日ソ関係200年史』(共著)新時代社,1983年


「日ロ関係 ―ピョートル大帝から現在まで―」

 藤本和貴夫(大阪経済法科大学教授) 

 
 藤本でございます。これから基本的にはロシアと日本の関係が
始まってから現在までの大体の流れをお話して、どのような事が
問題になっているのかという点について少し触れてみたいと思い
ます。
 日本とロシアの公式の接触が始まったのは210年前の179
2年、エカテリーナ2世によって派遣されたラクスマンが、伊勢
の漂流民である大黒屋光太夫らを伴って根室に来航した事から始
まっています。この時、鎖国を守ろうとした徳川幕府は光太夫の
帰国は認めましたが、ロシアの望む交易は拒否いたしました。た
だし、その時の話し合いで、今後ロシアが交易を望む場合には長
崎で交渉するという約束をし、そのような手形を渡したというこ
とになります。他方、鎖国政策の開始以来、初めて公式に帰国を
認められた光太夫は、非常にたくさんのロシアに関する情報を日
本にもたらし、それまでのロシアに関する間接的で断片的な知識
を大幅に塗り替えました。
 幕府の命を受けた蘭学者、桂川甫周が光太夫のロシア情報を聞
き取りし、それまでの自らの持っていたロシアに関する情報とを
重ね合わせ、集大成しました。それが『北槎聞略』といわれるも
ので、現在、岩波文庫になりましたけれども、堅苦しい話だけで
はなく、光太夫がカムチャッカに流れ着いてから日本に帰ってく
るまでの話と、桂川甫周が持っていた知識の両方が入っておりま
す。例えば漂着した時、光太夫はまったくロシア語が分からない
わけですから、どうして彼がロシア語を理解するようになったか
というと、「これは何ですか?」という日本語が、ロシア語では
「シトーエタ?」と言うことを発見し、色々な物を指して「シト
ーエタ?」と質問し、理解する単語を増やして、ロシア語を習得
していったという話から始まっています。つまり「北槎聞略」は
ロシアに関する地理・歴史・言語・習慣など、様々な事柄を網羅
した、いわばロシアに関する百科事典です。ただ、当時の日本は
鎖国時代でしたから、この本自体は公表されませんでした。しか
し、この「北槎聞略」を元にしただろうと思われる色々な本が出
ていまして、実際には日本の知識階級のあいだにロシアに関する
情報が広まっていきました。
 日ロの接触は大黒屋光太夫が帰国したというだけで、突然始ま
ったわけではありません。その前に前提というものがあります。
ロシアの記録によりますと、ロシアを最初に訪れた日本人は、大
坂の漂流民伝兵衛だとされていますが、じつはそれ以前に、ロシ
アに渡った日本人がいたという事は、中村先生をはじめ色々な方
が新たに明らかにされてきたことです。その日本人というのは、
16世紀末にマニラからロシアに入ったアウスニノス派の切支丹
日本人ニコライという洗礼名を持つ人物であろうといわれていま
すが、これは確かではないようです。ロシアに織田信長、豊臣秀
吉に関する情報をもたらしたということで、ニコライがロシアに
最初に渡った日本人だろうと、現在いわれているようです。その
後、徳川幕府の鎖国令によってオランダ、中国を除く外国との関
係を閉ざすことで、東南アジア経由でロシアに入るルートは閉ざ
されてしまいます。
 一方、ロシアのほうですけれど、初めて探検隊が太平洋側に達
したのは1639年です。つまり、ラクスマンの来航よりも15
0年程前のことです。ロシア側はカムチャッカに住みはじめるの
ですが、ちょうどその頃日本は鎖国となり両国の接触は不可能に
なります。しかし、徳川時代において日本とロシアが地理的に接
近した事は、日本からの漂流民の発見と、日本に関するさらなる
研究の始まりという結果をもたらします。
当時、日本人漂流民とロシア人の接触する場所はカムチャッカに
なります。日本の場合には太平洋を船で江戸に向かって物資を運
んでいたわけですが、太平洋岸で船が難破すると海流の関係で、
カムチャッカに流れ着くためです。おそらく多くの船が軟派して
色々な所に流れ着いたと思いますが、ロシアの記録に残っている
最初の漂流民といわれているのは、先程申し上げた伝兵衛と言う
人物です。1697年に、カザークの隊長のウラジーミル・アト
ラーソフ一行がカムチャッカ半島西岸のイーチャ川の河岸で、先
住民族の元で捕虜となっている一人の日本人を発見しました。こ
れが大坂から江戸に商品を運搬中に難破した伝兵衛です。伝兵衛
は質屋さんの息子とか色々言われていますが、谷町8丁目か9丁
目というところまで分かっているようです。この伝兵衛はピョー
トル大帝が謁見するという事でモスクワに向かいました。モスク
ワのすこし東のプレオブラジェンスコエ・セローという所にある
宮殿で、ピョートル大帝が伝兵衛から話を聞くということになり
ました。伝兵衛から日本の事情を聴取したピョートルは、ロシア
人の子弟に日本語を教えるように命令しました。こうして伝兵衛
は、ロシアにおける最初の日本語教師となりました。
 このプレオブラジェンスコエ・セローは何処にあったのか、と
先日探しに行ってきました。地下鉄にプレオブラジェンスカヤと
いう駅があります。もう少し離れた所に、別の路線ですがセミョ
ーノスカヤという駅があります。実はプレオブラジェンスキーと
セミョーノフというのはピョートル大帝の最初の近衛2つの名前
であります。ですから、おそらくその辺りにあったのだろうと思
いますが、現在はルィノークとお墓しかありませんでした。近所
に住んでいる人に聞いても、残っていないという話でしたけれど、
その場所を発見して記念碑でも建てればモスクワとの歴史的なつ
ながりができると思います。
 伝兵衛の後にも、次々に漂流民がカムチャッカに流れ着くこと
になります。1710年にはカムチャッカの東海岸に漂着したサ
ニマと、1729年にはカムチャッカ南東のロパットカ岬からア
バチャ湾に流れ着いた薩摩藩の「若潮丸」のゴンザとソーザとい
う人物が知られております。彼はほとんどロシア語を習得すると
共に、日本語の教師になってロシア人に日本語を教えることにな
ります。ロシアがなぜ日本語教師を必要としたかというと、ロシ
アが東に進出していくにあたって食料の調達が非常に難しいので、
日本との交易によって食料の調達をしたいと考えたからだと思わ
れます。
 他にも色々な漂着民が記録に残っていて出身地も分かっていま
す。日本側では大抵の所では記念会ができておりまして、例えば
光太夫の場合は、伊勢の白子に博物館がありますし、ゴンザの場
合は鹿児島にゴンザクラブというのができております。ゴンザの
胸像がサンクト・ペテルブルクに残っていまして、ゴンザクラブ
の会長とゴンザの顔は良く似ていると、会長本人もそう言ってお
りまして、色々な所で結びつきを作るという活動が行なわれてい
ます。
 一方、カムチャッカ側では、そうした場所に記念碑を建てると
か、観光ルートにするということが進んでいません。カムチャッ
カで日本人観光客を誘致する場合には、そうした場所をはっきり
させることにより、これからの観光開発になるのではないかと思
います。
 その後、ロシア人達がクリール列島を南下するにしたがって日
本側に多くのロシア情報が伝わってくるようになります。松前藩
は1759年にロシアのクリール半島への進出を知ります。17
81年に書かれた『松前誌』にロシア人は背が高く、鼻が高く、
力強くて服装器材すべてオランダ人と同じで、鉄砲の扱いも巧み
だということが書かれています。しかし、松前藩はその事を一切
幕府には報告しておりません。というのは、もし幕府に報告すれ
ば、とうぜん幕府は松前藩に防衛のための陣を敷けということに
なり、松前藩は大変な財政的支出になると考えたからです。また、
江戸時代に大きな衝撃を与えたのは、ハンガリー人ベニョフスキ
の手紙です。ベニョフスキは、戦争捕虜としてカムチャッカに流
刑されていた人物です。彼はカムチャッカ西岸のボリシェレツク
から船を奪って琉球に逃げてきます。そこから長崎のオランダ商
館長に宛てた手紙に、ロシア人が要塞を築き日本への攻撃を準備
していると書いて知らせました。これはデマですが、日本との貿
易の独占をロシアに妨害されることを恐れたオランダは、さらに
このデマを誇張して日本に伝えることで、日本人にロシアの脅威
を植付け、北方への関心を持たせることになりました。ここに2
つの流れが出てきます。1つは1783年、工藤平助という有名
な人物が『赤蝦夷風説考』というものを書きます。「赤蝦夷」と
いうのはロシアのことです。これは田沼意次への建言書でして、
その内容はロシアの日本侵略説は日本との貿易の独占を狙うオラ
ンダの策略であり、北方の開発とロシアとの交易を説いたもので
す。他方では、林子平が『海国兵談』というものを書きますが、
こちらはヨーロッパの大国ロシアの南下という事実そのものが脅
威であり、ロシアだけでなく清国も攻めてくるかもしれないと、
海国である日本の海防政策を中心に戦略を展開します。しかし林
子平の本が完成した時代は、田沼意次から松平定信に代わった時
代でした。田沼意次は北方での貿易を考えていたのですが、松平
定信はむしろ引き締めということで、林子平の外国が攻めてくる
かもしれないというのは「奇怪異説」とし、ありえない事を唱え
て平和を乱すということで林子平は罰せられることになります。
そういう中で1804年文化元年ですけれど、ロシア皇帝アレク
サンドル1世の国書を携えたレザーノフが再び長崎にやってまい
ります。レザーノフは、ラックスマンがやって来た時に幕府が渡
した「長崎で会う」という信牌を持って来たのですが、幕府はレ
ザーノフを6ヶ月間長崎に留めたままでこれを拒否します。この
ためレザーノフは目的を達せずに引きあげるわけですが、その後
レザーノフの部下であるフヴォストーフという人物がサハリンと
エトロフ島の日本人居留地域を襲撃するという事件が起きます。
これはレザーノフが命令したのかどうかは今でも議論になってい
るところで、レザーノフが非常にあいまいな言い方をしたもので
すから、色々議論があります。ロシア側の公式見解はフヴォスト
ーフが勝手にやったものだと最後は収めるわけですが、レザーノ
フの真意については、彼は『露日辞書・露日会話帳』というもの
を作って日本語を勉強し、相当の準備をしていたのは確かです。
問題はフヴォストーフの襲撃事件ですが、これが江戸幕府にとっ
て大恐慌をおこすことになります。幕府は東北地方の諸藩に蝦夷
地への出兵命令を出しロシア船の打ち払いを命じます。この噂は
各地に広がりました。1つの例ですが、堀田摂津守の部下として
出張していた近藤重蔵が、函館から江戸の知人に宛てた手紙が残
っています。その手紙によりますと、「エトルフ島乱暴狼藉の儀、
西蝦夷地リイシリと申所にて船四艘迄奪ひ取られ、其後函館に参
り候事に御座候、其節は函館一統、甲兜にて、大騒ぎの由に御座
候・・・」と書いてあります。ようするに、みんな甲兜を被って、
「ロシアが来たら戦争する」と大騒ぎになったということです。
手紙にはさらに「役所へ出候節も、陣羽織着致し、此地は今に半
戦場同様の軍評定のみに御座候、在勤の者方にても、甲兜を出し
置、五月様に御座候・・・」と続いています。ようするに役所に
仕事に行くのにも兜を持って五月様のような格好をしなさいとい
う手紙が江戸に届くほどの大騒ぎになったということです。その
際に落首もいくつか見られます。その1つに「えぞの浦に立ち出
てみればうろたへの、武士のたわけの高は知れつつ」というもの
があります。これはペリ−が浦賀にやってくる50年程前のもの
で、「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も
眠れず」というそれの50年位前にこういうことが言われていた
ということになります。
 カムチャッカより南下して、蝦夷地を占領するかもしれないと
いうロシアの脅威が源になって、攘夷論の原型になりました。幕
府は日本に隣接する大国ロシアへの対応に迫られました。これは
幕府によるロシア事情の研究と北方への探検へのきっかけとなり
ます。
 このような研究の中から佐久間象山などにより、日本近代化の
モデルとして改革と西側の窓を開いたピョートル大帝を参考にし
ようという研究が行なわれます。
 1855年に日露和新条約が結ばれ両国の外交がフヴォストー
フ事件の影響は明治初期まで消えることはありませんでした。1
871年(明治4年)、岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパ・ロ
シアをまわりました。この使節団には西郷隆盛以外の岩倉具視・
木戸考允・大久保利通・伊藤博文といったほとんどの明治政府の
首脳陣が参加した大デレゲーションで、最初にアメリカを訪れま
した。これはピョートル1世が最初にヨーロッパに行くときに、
ロシア政府首脳をすべて引き連れてまわった形と同じものです。
そして岩倉使節団は明治6年、最後にロシアを訪問しました。そ
の時の記録が『特命全権大使 米欧回覧実記』というもので、岩
波文庫に入っています。『米欧回覧実記』を書いたのは久米邦武
という人物で後に東大の教授になります。この記録は膨大なもの
でこの中にフヴォストーフ事件が幕末の攘夷論、さらには幕府の
崩壊、明治維新に至る歴史の歩みに大きな影響を与えたと書かれ
ています。漢文が入っていますので簡単に説明しますと、「文化
元年ノ九月、露国ノ使節「レサノット」氏の軍艦、長崎神ノ島ニ
入港シ、発出セル祝砲ノ響ニヨリテ、全国太平ノ夢ヲ驚カシ、是
ヨリ尊攘鎖国ノ論ハ、怫然トシテ湧起セリ・・・」。これはレザ
ーノフが長崎に来て大砲を撃ったため、日本中を驚かせたという
ことです。「此文化ヨリ嘉永安政ノ間ニ至ルマテ、鎖国ノ論家、
外国ノ事情ヲ研究スルニアタリ、先ず露国ヲ恐レル・・・」。こ
れは最初に外国の研究をする人はロシアを研究したということで
す。さらに誰が言ったのかは不明ですが「露国ニハ、一母五児ニ
乳スル図アリ・・・」。これは、一人の母親が5人の子供にお乳
を与えている図があり、ピョートル大帝はこれを描いて遺訓とし
ていました。その結果「五大州ヲ併呑シテ、子孫ヲ分封スベキコ
トヲ令セリト・・・」。これは五大州を自分のものにしてそれぞ
れ子供に分け与えるということです。そのような話がある事を知
りさらによく見ると、「ロシアはヨーロッパの三分の二とアジア
の半分を領有し、北米までに跨っているため、日本にとっては大
変なことである」という話があったと久米は書いております。岩
倉使節団がロシアに到着してロシアを見てまわり気付いたことが
ありました。それは実はロシアは未だにヨーロッパを追いかけて
いる状態にあり、世界制覇を求める大国ロシアの脅威というのは
誤ったイメージではなかったか?ということであり、久米はその
ことに気付いたと書いております。またさらに、「今ニシテ之ヲ
回顧スルニ、皆鎖国井蛙ノ妄想ニシテ、米欧各国ノ事情ハ、未タ
必スシモ其所謂ノ如クナラサルナリ・・・」。これは、ロシアは
西にドイツ、オーストリア、西南にはトルコ、更にそれらをイギ
リス、フランスが助け、海上の覇権をはばまれているし、国内で
はフィンランド・ポーランドを中心に専制政治に不満を持つ者が
絶えない。「文化元年ノ祝砲ニテ、日本鎖国ノ夢ヲ撃破セシ余響
ニヨリ、虎狼心ヲ以て露国ヲ憚ルノ妄想ヲ生シ、両国人ノ際ニ、
一ノ奇影ヲ幻出シタルノミ」。奇影というのは影のことです。久
米はこのような結論を『米欧回覧実記』に書いております。これ
は公式の記録ですので岩倉使節団としてロシアに行った日本人は
そのように考えていたのではないかと思われます。
 ロシアを実際に直接体験する日本人が生みだせれる事になりま
す。日本人にとってロシアが他のヨーロッパ諸国と違うのは、ロ
シアはヨーロッパの大国でありますが、同時に日本と領土を接し
ているヨーロッパの唯一の国家であるということです。そのこと
はその後のロシア・ソ連間に他のヨーロッパ諸国とは異なった色
彩を帯びさせることになります。つまり第二次世界大戦以前のヨ
ーロッパのイメージというのは、ヨーロッパに行った一部の人た
ちを除けば実際の経験ではないイメージですけれども、ロシアの
場合は実は多くの大衆レベルでの交流があり、その中でイメージ
が形成されていったのです。そのような接触の場所は、一つは日
本における正教会の活動による函館を中心にした地域、もう一つ
はウラジオストックを中心とするロシア沿海州です。1891年
にシベリア鉄道が起工されて多数の出稼ぎ労働者が日本から工事
の請負としてロシアに渡ります。シベリア鉄道の建設には特に長
崎を中心とする九州からの人たちが多く働いております。当時、
長崎とウラジオストック間に航路があったので特に長崎の人達が
多かったのです。
 その後、ウラジオストックには西本願寺ができます。ウラジオ
ストックを中心に大田覚眠と言う西本願寺のお坊さんが布教師と
して活躍します。彼が当時の事を次のように書いています。「浦
塩へ行くには,露西亜語を学ぶよりは、先ず長崎のバッテン語を
覚えて行けといわれたほどである。それほど九州人のみの出稼ぎ
地であった」。洗濯屋とか床屋とか大工、それから売春婦といっ
た人達がウラジオストックから沿海州に渡った。大工の一人にま
だ丁髷を結った老人がいて、「日本人は頭の上にピストルを載せ
て居るから危険千万だ」、とロシア人にからかわれた。
 1902年にウラジオストークとハバロフスク間で建設が進め
られていたウスリー鉄道が開通し、さらに満州里からハルピンを
経由してウラジオストックに達する中東鉄道も完成するという事
になりますと、交通の拠点としてのウラジオストークの地位は格
段に重要なものになります。ウラジオストークはロシア人のみな
らず、中国人、朝鮮人、日本人などが活躍する東北アジアにおけ
る国際都市になりました。1899年に日本も含むアジア諸国に
関する教育拠点として東洋学院が設立されました。東洋学院はロ
シアにおける最初の公式な日本研究の施設で、初代日本学科の教
授はスパルビンという人物でした。彼はロシアにおける日本研究
の草分けであります。彼は面白い経歴の持ち主でして、わりに有
名なロシアの日本学者日露戦争後に日本に来ていますが、スパル
ビンは日露戦争の前に日本に留学しています。その後、革命の中
で東洋学院を守って、1925年には、ロシア大使館の文化担当
アタッシュとして来日し、1930年まで大使館に勤務します。
その後1933年に亡くなるまで、満州鉄道のソ連の代表を務め
ました。また、彼は非常にたくさんの日本に関するものを書いて
います。スパルビンは日本とロシアの関係では非常に重要な人物
であると思います。その後、東洋学院は一時廃校になりそれを継
ぐ人がいませんでした。この頃、つまり20世紀初頭にウラジオ
ストークにいた正式の在留日本人は2875人という数字が残っ
ております。
 他方、19世紀末から20世紀の初めに東北アジアにおいて、
日本とロシアは朝鮮半島と満州の勢力範囲をめぐって対立します。
1898年にロシアは遼東半島の旅順と大連を中国から租借し、
さらにこれらの都市から中東鉄道まで鉄道路線を引く権利を得ま
す。実は遼東半島は日清戦争の結果、日本が獲得しようとしたけ
れど、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉によりそれはできな
かったという経緯があり、日本のロシアに対する警戒感と反発は
非常に大きくなりました。1902年、日本はイギリスと、ロシ
アはフランスとそれぞれ同盟を結び、1904〜1905年の日
露戦争に突入するということになります。大衆レベルの日露の接
触というと、戦後、日本に収容された多数のロシア人捕虜の体験
ということがあります。松山と大阪の尼寺に大規模なロシア人の
捕虜収容所があって、現在でもいろいろな形で交流が続いていま
す。
 日露戦争後、両国の東北アジアにおける政治的な利害関係は調
整され改善しました。1907年には、日本政府はヨーロッパへ
の交通航路と国際貿易の発展として、横浜、神戸、関門(下関・
門司)に敦賀を加えた4つの港を国営とします。敦賀は日本から
ウラジオストークを経由して、シベリア鉄道に乗りヨーロッパに
向かうメインルートの出発地となります。当時、敦賀からウラジ
オストーク間には週3便の連絡船があって、ウラジオストークで
それぞれヨーロッパ行きの急行列車と連結していました。さらに
1912年(明治44年)に東京から敦賀への直通の寝台列車が
出るようになります。これは夜に東京を出発して朝に敦賀港につ
くと、そのまま乗船し船中2泊でウラジオストックに着いて、そ
こからヨーロッパにシベリア鉄道で行くというルートが確立しま
す。これは当時、ヨーロッパへの最短で最速のルートで、敦賀か
らモスクワまで12〜13日、ベルリンまで14〜15日、パリ
までは15〜16日という短期間でヨーロッパと結んでいました。
それまでは、スエズ運河をまわって行くというのが一般的で、時
間も運賃も倍以上かかっていたのです。そのためヨーロッパから
日本に帰国する人はまず敦賀に降りることになり、最初の声明は
敦賀新聞に載るという時代が続きます。第一次世界大戦で日本は
ロシアの同盟国になると、島村抱月や松井須磨子らの芸術座がト
ルストイの「復活」を上演し、その中で歌われた「カチューシャ
の歌」というのが日本で流行しました。1915年にはツルゲー
ネフの「その前夜」の上演で、「ゴンドラの唄」が流行すること
になります。1917年の二月革命は日本では共感を持って迎え
られますけれど、十月革命については、おそらくその行方が良く
分からないということだったと思います。ただし、当時ウラジオ
ストークに在留邦人が大体5000人位いたと言われますが、『
浦潮日報』という日本語の新聞を出していた和泉良之助という人
物がいました。この方は東京外語卒で二葉亭の弟子ということで、
ウラジオストークで日本語を教えていました。彼が『浦潮日報』
で「露国は今や無政府状態、無警察状態同様なりと聞いた日本人
が直ちに危機と解釈するのは無理もない訳だ。若し日本人が今日
の如き露国の状態に陥ったとしたならばソレコソ東京でも大阪で
も毎日毎日焼討だろう。ソコへいくと露西亜人はエライものだ。
無政府であろう無警察であろうと一向に拘わないと泰然として動
かざること山の如しだ。・・・露西亜は空前の戦争と革命と同時
にやっていて殆んど無政府無警察の状態にありながら群雄は何処
にも割拠しない盗賊は蜂起しない国民も塗炭に苦しんでいる様子
もない。尤も石炭は苦しんでいるらしい。・・・気の早い日本人
は少し露西亜に学ぶが宜い所で・・・」というような事を書いて
います。これは1917年の12月ですから、十月革命の後の事
です。
 一方、日露関係のほうは革命をめぐる複雑な国際関係の中で緊
張したものになります。革命によるロシアの混乱に乗じてロシア
極東と満州の支配権を獲得しようとする勢力が日本の軍部の中で
強くなり、1918年4月に日本は沿海州の邦人保護を理由とす
る陸戦隊を上陸させると、さらに同じ年の8月にはチェコスロヴ
ァキア軍の救出を理由とする日米共同の「シベリア出兵」を行な
います。この時、6年8ヶ月という長期間、日本はシベリアに出
兵をするわけですが、当時の日本陸軍の常備兵力である国内19
個師団、海外3個師団のおよそ半分の20万以上の兵員がこの干
渉戦争に参加し、ロシア極東の各地に大きな傷跡を残しました。
ソヴェト文学のなかにファジェーエフをはじめ、シベリアのパル
チザンの活動を題材にした小説が非常に多いのですが、他方、日
本側では最終的に「勝利者」にならなかったということで、シベ
リア出兵を題材にした小説は黒島伝冶の『渦巻ける烏の群れ』と
か、幾つかありますが、ほとんどありません。非常にそこが対照
的になっております。このロシア革命にともなう内戦の干渉戦争
の結果、ロシアから多数の海外への移住者を生み出しました。中
国ではハルビンや上海、日本では横浜や神戸が彼らの居住地とな
ります。日本への移住者は、欧米への移住者と比べてはるかに少
なく、その特徴はチョコレート会社を成功させたモロゾフなどを
除くと実業者は少なく、音楽やバレーなど文化の面で日本社会に
様々な影響を与えた人が非常に多いと言えます。1925年に日
ソ両国の国交が樹立されますけれども、その課程で外交担当者の
みならず、当時の日露協会会頭の後藤新平と露西亜のヨッフェ、
この2人の活動が日ソ国交樹立に非常に大きな役割を果たしまし
た。実は日ソ国交樹立の際に、これと抱き合わせで治安維持法が
成立しております。日本での文化・芸術の寄与という背景にあっ
たこの治安維持法というものも一つには考える必要もあると思い
ます。
 1932年に満州国が建国されますと、歴史上において日露・
日ソ関係に大きな影響を与えていた東北アジアの情勢は再び緊張
したものになります。1939年には日ソ間にノモハン事件が起
こります。さらにソ連、日本とも第二次世界大戦に突入すること
になります。第二次世界大戦については色々な問題がありますが、
ここでは日本の大衆レベルでのソ連体験についてのみ簡単に述べ
ます。それは日本人のシベリア抑留問題であります。戦後のソ連
復興の労働力とされた日本人の抑留体験についての記録は膨大で、
2000冊以上の体験記録が出版されていて、現在に至っても新
たな著書が出版され続けています。抑留された日本人の数は60
数万人、死亡者は厚生省援護局の数字によると5万5千人と言わ
れています。この数字については色々議論があり、とくに最近で
はロシア側の資料の発掘によって、さらに多い数字が報告されて
いますが、日本側の資料と突き合せないと正確な数字を出すのは
難しいので、我々もきちんとやらなければならないと思います。
第二次大戦後の日本人のソ連感というのは、この膨大な数の抑留
者の体験から生み出されているところが大きいと思われます。こ
の抑留者の方々が帰ってきてからどの様にソ連について語ったか、
或いはどう生きたかいう事が大きな問題ですけれども、これは国
際情勢や日本の政治状況で色々左右されてきました。いつ帰国で
きるか定かではないという抑留生活の不安と怒りは、抑留者共通
のものでありました。日本の発言力が弱いのは日本に力がないか
らだと考え、日本の再軍備を主張する人達がでてきます。一方で
は、軍国日本で押さえつけられていた勤労者の意識に目覚めた人
達がでてきます。またそれ以外にも色々な対ソ感情がここで生ま
れてきました。シベリア抑留者が帰国して日本社会における生き
方にどのような影響を与えたかということは、いろいろな形で考
えていかなければいけないことですし、さらに抑留問題が法的に
決着したとはいえない状況がまだ続いていております。
長い間、ソ連に対する認識というのは、日本の政府状況と密接に
結びついて議論されてきました。これは社会主義の是非という大
命題があったため、個別分析がほとんどなされませんでしたが、
現在では、社会主義の是非に関してはロシア側も含めてほとんど
問題ではなくなり、むしろ個別分析にお互い共通の基盤がありま
す。スターリン体制下にあったロシア人と、状況は違いますが抑
留されていた日本人と考える基盤が一緒になったという事で、お
互いに議論できるようになったと思います。
戦後、日ソ間の外交関係は1956年の「日ソ共同宣言」で回復
され、1973年の田中首相の訪ソでは、日米新安保条約の締結
以来の停滞した日ソ関係が、政治、経済、文化の面で進展してい
ることを確認し、第二次世界大戦の時からの未解決の諸問題を解
決して平和条約を締結するということが田中訪ソ日ソ共同宣言で
確認されるということになります。80年代後半からは両国の首
脳間の交流が活発になってきます。91年にゴルバチョフ大統領
が国家元首として初めて訪日して日ソ共同宣言を発表し、また、
日本人抑留問題で哀悼の意を表明しました。ロシア連邦とは93
年の東京宣言、97年のクラスノヤルスク会談、98年の川奈会
談、モスクワ会談、2001年のイルクーツク会談などで、両国
の国境線確定を含む諸問題の解決のために両国間で様々な試みが
行なわれています。
 これまでの決して短いとはいえない日本とロシアの関係を振り
返って言える事は、現在ほど政治・経済・文化を含む様々な分野
で、両国の人々の往来が活発な時代はなかったという事です。こ
のような状況の元で、日ロ関係の歴史の中で起こった諸問題の本
質がどこにあったかという事を、お互いに冷静に議論できる状況
が生まれていると思います。日本にとってはヨーロッパの国とし
てのロシアとの関係は古くから続いてきましたし、また、アジア
の中での日本に最も近い国の一つでもあります。両国の関係が地
理的なものだけでなく、心理的にも近いものになる条件をいかに
作っていくかということを探ることが、このシンポジウムの大き
な目的の一つではないかと思います。
 ご清聴ありがとうございました。

 


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